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唐 門 (重要文化財)
五重塔跡
3代将軍家光公の命により建立され、高さ約30Mあったという 五重の塔は輪奐の美を極めたものといわれているが、明治 6年に取払われ、現在は在りし日を偲ぶ礎、敷石を元のまま 残すのみである。
神楽殿 (重要文化財)
昔は武家奉納の絵馬が掲げてあり神楽殿の
名があるが、神楽は舞わない例だと言われる。
元和三年の建物である。 西暦1617年
鼓 楼 (重要文化財)
以前は鐘楼といわれ明治五年神佛分離の際
鐘を太鼓に取り替え今の名称に改めた。
元和三年の建造である。 西暦1617年
廟 門 (重要文化財)
以前は御宝塔門と称えた廟所に通ずる
門である。本殿の後方西にある。
家康公は天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)に生まれ、
あらゆる艱難辛苦(かんなんしんく)の末戦国時代に終止符を打ち江戸時代260年に
亘る世界に其の比を見ない長期平和の礎を打立てられ、学問・産業・文化の基礎を
確立し、晩年は駿府城に隠居されたが元和2年(1616年)4月17日75歳で薨去、
御遺命によりその夜久能山に葬られた。その後東照神君として平和・開運・学問・厄除の
神として崇められ、全国東照宮の根本大社として幅の広い崇敬を受けている。
楼 門 (重要文化財)
前面に後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」の額が掲げてあるので
勅学御門とも称する。元和三年の建造である。 西暦1617年
孟宗竹について
竹にはたくさんの種類があります。主に食用として
利用されているのが孟宗竹・真竹・淡竹などであるが、
一般には孟宗竹を指し、品質・味ともにすぐれている。
孟宗竹は中国江南地方が原産で、日本には西暦
1730年頃琉球から鹿児島に伝わり、後に東日本
まで広まったと言われている。
孟宗竹の由来は中国で有名な物語である「二十四孝」
の中の話として伝えられ「病床の母のため寒中に竹の
子を掘って食べさせた。」という孟宗の孝行話から
つけられた。
たけのこは「竹の子」「筍」の字を当て発芽して十日
以内(旬しゅん)が竹の子でそれ以上たつと竹になると
いう意味から『筍』という説がある。
竹に書いてある数字は発芽した年である。
神 厩 (重要文化財)
中に納められている馬の彫刻は、 左甚五郎作と伝えられ、
馬の眼球は 当時貴重なギヤマン(ガラス)で作ら れている。
「金の成る木」のいわれ
ご祭神徳川家康公にまつわる多くの遺話の中に「金の成る木」があります。
これが左側の杉の大樹がふさわしいかと想われます。
この杉は三代将軍家光公当時に植樹されたものと言われ、約350余年
を経ています。
家康公が諸人たちに「金の成る木」を問わせられた。
これには誰も知らず、公は自ら筆を把られて三本の木を描き
よろづ程のよ木 (万事のよき)
じひふか木 (慈悲深き)
しゃうぢ木 (正直)
と書かれて、これを常々信用すれば必ず富貴を得られようと仰せられた。
のち細川三斎忠興公がこれに左右の枝にとお添え遊ばしてはとなり
あさお木(朝起き) いさぎよ木(潔き)
しんぼうつよ木(辛抱強き) ゆだんな木(油断の無き)
ようじょうよ木(養生よき) かないむつまじ木(家内むつまじき)
と。左右の枝が繁昌するならば一段と富貴を得られよう。
皆々この「金の成る木」を写し取って、家内のものに教えるようにと
命ぜられたという。
これにちなみ誰れとはいわず、このところの杉に願掛けとして硬貨を
そなえるようになりました。
ご神縁深き皆様方にも「金の成る木」にあやかれ毎日が心豊かで、
すこやかな生活をされますよう祈念申し上げます。
神 廟 (重要文化財)
家康公のお墓所
家康公は元和二年(1616年)
四月十七日に薨去せられ
御遺命によってこの地に埋葬し奉った。
廟の高さ六メートル、西向になっている。
駿河湾を望む
ここから表参道の石段1159段を下って
集合場所へ。
同じツァーの人が誰も見えず、あせって
降りたので写真も撮れなかった。
(;^_^A アセアセ
下りとはいえ1159段はきつい!
翌日はしっかり筋肉痛でした。
↑
石垣いちごのハウス
久能海岸沿いには石垣いちごのビニールハウスが続く
わさび漬けの工場と追分羊かんのお店に寄り、試食とお買い物。
わさび漬けの工場では辛味体験ゾーンがあり、そのお部屋に入った途端
目は痛くなるし息もできない。一瞬覗く程度しかいられませんでした。
粉末わさびを吹き付けられた感じでした。(>_<)
結局1日中曇り空。富士山は顔を出してくれませんでした〜。(ToT)ウルルン